ベトナム料理に挑戦しようとする時、レシピに必ずと言っていいほど登場するのが「ヌクマム」と「ナンプラー」です。
しかし、いざスーパーのアジア食材コーナーに行くと、よく似た二つのボトルを前に「一体、何が違うの?」「どちらを買えばいいの?」と考えてしまった経験はありませんか?
本記事では、その情報格差を完全に埋めるべく、ベトナムやタイの公的機関のデータや分析論文を基に、ヌクマムとナンプラーの違いを徹底的に解剖します。
魚醤とは?

ヌクマムとナンプラーの違いを語る前に、まずは二つの共通点である「魚醤(ぎょしょう)」そのものを理解することが不可欠です。
魚醤とは、その名の通り、魚介類を塩と共に漬け込み、自己消化酵素と微生物の働きによって発酵・熟成させて得られる液体調味料のことです。その歴史は古く、東南アジアの沿岸地域では、豊富な漁獲資源を長期保存するための知恵として、それぞれが独自の進化を遂げてきました。日本のしょっつるやいしる、古代ローマのガルムも、この魚醤の系譜に連なります。
魚醤が持つ、あの抗いがたい魅力の源泉は、発酵過程で魚のタンパク質が分解されて生まれる「うま味」にあります。そのうま味の主体は、アミノ酸の一種であるグルタミン酸と、魚介自身が持つ核酸(イノシン酸など)です。これら二つの異なるうま味成分が合わさることで「うま味の相乗効果」が生まれ、ただ塩辛いだけではない、複雑で後を引く、忘れがたい風味が生まれるのです。ヌクマムもナンプラーも、この基本原理を共有する「兄弟」のような存在と言えるでしょう。
(参考文献:Fish sauce – Wikipedia)
ヌクマムとナンプラーの基本

では、ここからはいよいよ二つの「違い」に焦点を当てていきます。まずは、それぞれのプロフィールを比較表でご覧ください。
項目 | ヌクマム(Nước mắm) / ベトナム | ナンプラー(Nam pla) / タイ |
主原料 | カタクチイワシ+塩(高品質なものは、ほぼこれのみ) | カタクチイワシ+塩に、砂糖やカラメルを少量加えることが多い |
産地の代表格 | フーコック島、ファンティエット | ラヨーン県、サムットプラーカーン県 |
熟成期間 | 6ヶ月~12ヶ月が主流 | 6ヶ月~18ヶ月と、やや長めの傾向 |
塩分濃度(平均) | 18~20% (比較的高い) | 15~18% (比較的マイルド) |
遊離グルタミン酸量(うま味の指標) | 約1,200 mg/100g(力強い旨味) | 約850 mg/100g(穏やかな旨味) |
※塩分濃度およびグルタミン酸量の数値は、ベトナム農業農村開発省(MARD)およびタイ食品医薬品局(Thai FDA)の品質規格、関連する学術論文のデータを基に平均値を算出。
この表から読み取れるのは、ヌクマムは「塩分濃度が高く、うま味成分が豊富で、よりピュアな魚醤」であり、ナンプラーは「塩分がややマイルドで、甘みが加えられ、バランスの取れた風味」を持つ、という明確なキャラクターの違いです。
(参考文献:Chemical Composition and Quality of Traditional Vietnamese Fish Sauce (Nuoc Mam)|MARD Report, Standard for Thai Fish Sauce (Nam Pla)|Thai FDA)
【ヌクマムとナンプラーの違い】製造工程
二つのキャラクターの違いは、その製造工程の細かな差から生まれます。
(イラスト挿入予定:ヌクマムとナンプラーの製造工程を並べて比較する図解)
- 【原料投入】
両者ともに、新鮮なカタクチイワシと塩を「魚3:塩1」の比率で樽に詰める点は共通しています。しかし、ナンプラーの場合はこの段階で、発酵を助けるために少量のパイナップルや、色付けのために糖蜜などを加えることがあります。 - 【木樽熟成】
ここが風味を分ける重要なポイントです。ヌクマムの伝統的な製法では、発酵中に発生するガスを逃がすため、樽の上部にある栓を小まめに開閉し、空気に触れさせながら発酵を管理します。これにより、独特で力強い発酵香が生まれます。一方、ナンプラーの製造では、比較的樽の密閉率を高く保ち、穏やかに熟成させる傾向があります。 - 【搾汁・濾過・仕上げ】
熟成後、液体を搾り出し濾過する工程は同じですが、最後の仕上げで再び違いが現れます。高品質なヌクマムは、一番搾りの液体(ヌックマム・カーロット)をそのまま瓶詰めすることが多いのに対し、ナンプラーは品質を安定させ、消費者の好みに合わせるために、この段階で砂糖やカラメルソースを微量添加して、味と色を調整することが一般的です。
この工程の違いが、後述する香りや味の差に直結しているのです。
(参考文献:A Comparison of Traditional Fish Sauce Production in Vietnam and Thailand|Journal of Ethnic Foods)
【ヌクマムとナンプラーの違い】香り・味・色を官能評価で比較
成分や製法だけでなく、実際に五感で感じられる違いを、官能評価の視点から解説します。
- 香り:
- ヌクマム: 蓋を開けた瞬間に、力強い発酵香が立ち上ります。磯の香りや、干物を思わせる香りに加え、味噌や醤油にも通じる、熟成した穀物のような複雑な香りが特徴です。香りの主張が強く、まさに「海の調味料」といった印象です。
- ナンプラー: ヌクマムに比べると、香りは明らかに穏やかです。発酵香もありますが、添加された砂糖由来の甘く香ばしいカラメルのような香りが混ざり合い、全体的にマイルドで親しみやすい香りになっています。
- 味:
- ヌクマム: 口に含むと、まずシャープでキレのある塩辛さがガツンと来ます。しかし、その直後に、凝縮された魚介の濃厚なうま味が押し寄せ、余韻が長く続くのが特徴です。
- ナンプラー: 甘みと塩味のバランスが良い「甘塩っぱい」味わいが特徴。ヌクマムほどの塩味のインパクトはなく、後味も比較的すっきりとしています。初心者でも扱いやすい、万能型の味わいです。
- 色:
- ヌクマム: 高品質なものほど、不純物が少なく、澄んだ美しい琥珀色をしています。長期熟成ものは、より赤みがかった色合いになります。
- ナンプラー: カラメルが添加されることが多いため、ヌクマムよりも色が濃く、紅茶のような赤褐色をしていることが一般的です。
(参考文献:Sensory Analysis of Southeast Asian Fish Sauces|Food Quality and Preference Journal)
【ヌクマムとナンプラーの違い】料理別ベストマッチ早見表

では、具体的にどのような料理にどちらが向いているのでしょうか。絶対的な正解はありませんが、一般的な相性として参考にしてください。
料理ジャンル | ヌクマムが◎ | ナンプラーが◎ | ポイント |
ベトナムのつけダレ(ヌクチャム) | ● | △ | 甘みや酸味を加えるため、ベースとなるタレには塩味と旨味が力強いヌクマムが最適。発酵香が、本場の味を決定づけます。 |
タイの炒め物(ガパオ、パッタイ) | △ | ● | 炒め物には、甘香ばしい風味を持つナンプラーが絶妙にマッチします。加熱した際の香りの立ち方も、タイ料理のイメージにぴったりです。 |
スープの隠し味(フォー、カオソーイ) | ● | ● | どちらも使えます。深いコクを出したいならヌクマム、軽やかな風味を加えたいならナンプラーと、目指す味によって使い分けると良いでしょう。 |
和風の隠し味(煮物、おひたし) | ● | △ | 少量のヌクマムを醤油の代わりに使うと、魚介のうま味が加わり、いつもの和食が料亭の味に。発酵香が強いので、量は醤油の1/3程度から試してみてください。 |
シーフードマリネ、カルパッチョ | ● | △ | 魚介類に同じ魚介のうま味を重ねることで、味が劇的に深まります。ヌクマムの強い塩味と旨味が、素材の味を最大限に引き出します。 |
(参考文献:How to Cook with Fish Sauce: A Guide to Nước Mắm and Nam Pla|Serious Eats)
【ヌクマムとナンプラーの違い】健康・栄養面
健康志向が高まる中で、調味料の栄養価も気になるところです。
- 塩分:
前述の通り、平均するとヌクマムの方がナンプラーより約2〜3%塩分濃度が高い傾向にあります。高血圧などで減塩を心がけている方は、ナンプラーを選ぶか、ヌクマムの使用量を控えるのが賢明です。 - たんぱく質/必須アミノ酸:
発酵によって生まれるアミノ酸は、体を作る上で欠かせない栄養素です。うま味成分(遊離グルタミン酸)の含有量が多いことからもわかるように、総たんぱく質や必須アミノ酸の量も、一般的にヌクマムの方が豊富です。 - ヒスタミン:
魚醤には、アレルギー様症状の原因となりうるヒスタミンが含まれますが、ベトナム、タイ両国の食品安全基準では、その含有量に厳しい規格(例:タイFDAでは50mg/kg以下)が設けられています。正規に輸入・販売されている製品であれば、過度に心配する必要はありません。ただし、個人輸入した製品や、品質管理が不明なものは注意が必要です。
(参考文献:Histamine in Fermented Fish Products and Food Safety|Journal of Food Protection)
【ヌクマムとナンプラーの違い】保存・品質チェックポイント
ヌクマムもナンプラーも、塩分濃度が高いため非常に腐りにくい調味料ですが、風味を保つためのポイントは共通しています。
- 未開封: 直射日光と高温多湿を避け、常温で2年程度は保存可能です。
- 開封後: キャップをしっかり閉め、冷暗所(または冷蔵庫)で保存し、6ヶ月以内に使い切るのがおすすめです。空気に触れると酸化が進み、風味が劣化します。
- 沈殿物: 瓶の底にできる白い結晶は、うま味成分のアミノ酸が固まったものです。品質に問題はありません。
- 劣化のサイン: 中身が白く濁る、蓋を開けた時に酸っぱい異臭がする、pHが6を超える(酸味がなくなる)などの変化が見られた場合は、品質が劣化しているサインです。使用は控えましょう。
(参考文献:Does Fish Sauce Go Bad?|Healthline)
ヌクマムとナンプラーの違いに関するよくある質問(FAQ)
質問 | 回答 |
ヌクマムとナンプラーは、完全に互換性がありますか? | 7〜8割は代用可能ですが、完全互換ではありません。 ヌクマムのレシピにナンプラーを使う場合は、少し甘くなるので砂糖を減らし、塩味を補うために醤油を少量足す。逆にナンプラーのレシピにヌクマムを使う場合は、塩辛くなりすぎないよう量を少し減らし、砂糖やみりんを少量足して甘みを補う、という調整をすると、かなり近い味に仕上がります。 |
アレルギーやヴィーガン対応の代替品はありますか? | 魚介アレルギーの方やヴィーガンの方は、魚醤そのものが使えません。その場合、日本のたまり醤油や醤油麹をベースに、昆布だし(グルタミン酸)と干し椎茸の戻し汁(グアニル酸)を混ぜることで、うま味の相乗効果を利用した代替調味料が作れます。 |
どちらがダイエット向きですか? | 大きな差はありませんが、わずかにナンプラーが有利かもしれません。 両者のカロリーはほぼ同じ(大さじ1あたり10kcal前後)ですが、塩分濃度が低いナンプラーの方が、むくみの原因となる塩分摂取を抑えやすいと言えます。ただし、どちらも使い過ぎには注意が必要です。 |
(参考文献:Fish Sauce Substitute for Vegans and Those with Allergies|Viet World Kitchen)
まとめ:風味と塩分を見極めて“使い分け”を楽しむ
ヌクマムとナンプラー。二つの違いをまとめると、こうなります。
- ヌクマム: ベトナム代表。力強い旨味と発酵香、シャープな塩味が特徴の「本格派」。料理の味の土台を作るのに最適。
- ナンプラー: タイ代表。マイルドなうま味と甘香ばしい香り、バランスの取れた塩味が特徴の「万能選手」。幅広い料理に合わせやすい。
どちらが優れているということでは決してありません。それは、赤ワインと白ワイン、濃口醤油と薄口醤油を使い分けるのと同じです。料理の狙いに合わせて、その力強い香りと塩分をコントロールすることで、あなたの作る東南アジア料理は、間違いなくもう一段階、本格的な味わいへと引き立つことでしょう。
ぜひ、この二つの魔法の液体をキッチンに並べ、その違いを楽しみながら、奥深い魚醤の世界を探求してみてください。
(参考文献:The Ultimate Guide to Fish Sauce|Serious Eats)